聖書のみことば
2022年4月
  4月3日 4月10日 4月17日 4月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月10日主日礼拝音声

 誘惑に陥らぬよう
2022年4月第2主日礼拝 4月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第22章39〜46節

<39節>イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。<40節>いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。<41節>そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。<42節>「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔<43節>すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。<44節>イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕<45節>イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。<46節>イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

 ただいま、ルカによる福音書22章39節から46節までをご一緒にお聞きしました。主イエスが十字架にかけられる前の晩に、懸命に神にとりすがり、まるで格闘しておられるかのように捧げられた一つの祈りのことが語られています。この祈りは、まさしく主イエスが地上のご生涯に捧げられた最も激しい祈りであるに相違ありません。と同時にこの祈りは、信じる者たちを力づけ、慰めと勇気を与え、救いへと導く祈りでもあります。本日から主イエス・キリストの御受難を覚える受難週へと入っていきますが、この朝、私たちは、主イエスが捧げてくださったこの祈りについて、思いを潜め聴き入りたいと願います。

 39節40節に「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」とあります。弟子たちはこの晩、初めのうちは特別なことが起こるとは思っていなかったようです。「いつものようにオリーブ山に行った」と言われています。このオリーブ山はエルサレム郊外と言われています。エルサレムは山の上ですが、エルサレムの町を出ますとキドロンの谷があり、谷を挟んで向かい側にあった低い丘がオリーブ山と呼ばれていたようで、そこにはオリーブの木がたくさん植えられていて、主イエスと弟子たちはそのオリーブの木の間で野宿をしながら毎晩仮眠をとっておられたようです。「いつものようにオリーブ山に行った」というのは、この場所に行って就寝前の祈りを捧げ、それから眠りにつくという意味です。弟子たちは当然この日も、主イエスが祈られた後、お休みになるのだろうと思っていました。
 ところがこの晩、主イエスはオリーブ山に着くと、祈りを捧げる前に弟子たちに普段と違うことをおっしゃいました。「誘惑に陥らないように祈りなさい」、この言葉は弟子たちにしてみれば、とても不思議な言葉に思えたのではないかと思います。もしこれが「寝る前には毎晩欠かさずにお祈りをしなさい」というような言葉であれば、よく分かるだろうと思います。けれども、「誘惑に陥らないように祈りなさい」とは、一体どういうことでしょうか。

 主イエスがこの晩捧げられた激しい祈りについて語る記事は、ルカによる福音書だけではなく、マタイによる福音書やマルコによる福音書にも出てきます。しかしその三つの福音書の中で、ルカによる福音書の記事だけ、独特な点があるとよく言われます。何ヶ所かそういう点は指摘されていますが、例えばマタイによる福音書やマルコによる福音書では、オリーブ山のいつもの場所に行った後、主イエスはペトロとヤコブとヨハネの3人だけを伴って少し離れた場所に出て行かれたと言われています。つまり弟子たちのうち、主イエスの激しい祈りを聞いたのはぺトロとヤコブとヨハネだけだったという言い方です。ところがルカによる福音書では、主イエスは弟子たち全員に向かって「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃっています。そしてそれから、すぐに御自身の祈りを始めておられます。ルカによる福音書では、弟子の全員が「誘惑に陥らないように祈りなさい」という主イエスの言葉を耳にしているのです。
 主イエスは弟子たちとお過ごしになった一番最後の晩に、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と教えられました。「弟子たち皆に伝えたい、とても大事なこと」として、おっしゃっておられるのです。

 そうであるなら、ここにいる私たちとしても、是非ともこの言葉の意味を理解したいと思うのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とは、どういう意味なのでしょうか。その意味は恐らく、主イエスがこの晩お捧げになった祈りからしか理解できないのではないかと思います。
 主イエスはこの晩、父なる神に向かって「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)と祈られました。少し婉曲な言い方をしておられますが、ここに言われている「杯」とは何のことでしょうか。主イエスが濡れ衣を着せられ無実であるのに犯罪人のように十字架上で処刑されるという、その事態をこういう言い方で表しています。今日の箇所の直前、37節に「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」とあり、そのことが分かります。
 主イエスは捕らえられる前から、御自身が敵に捕まり犯罪人のように鞭打たれた上、辱められ、そして十字架にかけられるということを承知しておいででした。それでいて、そういう御自身の厳しい務めから逃げ出そうとはなさいません。主イエスはこの時点でもう、イスカリオテのユダが裏切り、捕り方の者たちがこちらに向かっているということを承知しておられます。しかしそのことを分かった上で、いつものように行動しておられるのです。すなわちいつものようにオリーブ山に行き、いつもの場所で祈りを捧げておられます。ユダと捕り方が来ると分かっていてもそうなさっているということは、主イエスは逃げておられないということなのです。主イエスにとっては、この場面で神に祈りを捧げるということが何にも勝る武器であって、そしてそれは逃げるに増して、戦うにも優れた戦い方でした。

 けれども、祈りが武器だということは普通にはなかなか分かってもらえないことかもしれません。世の中では、祈りは大変弱い手段だと思われているのではないでしょうか。多くの場合、祈るという行動は、もはや打つ手がなくどうしようもなくなってしまった時に初めて選ばれる逃げ道のような手段に思われているのではないかと思います。「苦しい時の神頼み」という言葉もあるわけで、苦しくなければ、普段はあまり祈りません。
 主イエスはどうでしょうか。捕らえられることは避けられない、その現実から逃避するために「あとは何とかしてください」と神に祈りを捧げ、神任せにして、御自身は現実を直視せずにやり過ごそうとしているのでしょうか。そうではありません。
 そのことは、主イエスがここで捧げられた祈りの言葉を聞くとよく分かります。もしこの場面で、「濡れ衣を着せられ十字架にかけられて死ぬ」ということを受け止めきれず、そういうことから思いを逸らせたくて祈ったのであれば、「どうか神さま、この辛い運命がわたしに起こらないようにしてください」と、そのことだけを、つまり「この杯を取り除けてください」とだけ繰り返し祈ったに違いないのです。
 ところが実際はそうではありませんでした。「この杯を取り除けてください」という祈りに続けてすぐ、もう一つの祈りが捧げられています。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とあります。これはどういうことでしょうか。率直に言うと、この祈りの場面では、父なる神と御子イエス、父と子との間にひとつの戦いが起こっています。父なる神が御子である主イエスを十字架上に死なせようとしているのです。そしてそれに対して、子である主イエスは父に向かって「これはどうしても御心に従わなくてはならないことなのですか」と必死になって訴えているのです。
 しかしこの戦いは、世の中でよく見られるような荒々しく反抗心むき出しの戦いというのでありません。そうではなく、この祈りにおいて戦われている戦いは、一つのあるべきあり方をめぐってのあれかこれかを問う戦いです。これは、神の内における戦いと言ってよいものです。つまり具体的にいえば、主イエスが今から辿ろうとしている道、十字架に向かっていく道というのは、神ご自身にとって、どうしても避けて通れない道なのか、そこを辿らずに済ませることはできないのかということが問われているのです。今ここでは、そういう問いを巡って神ご自身の中でとても真剣な戦いが起きています。どこまでも冷静に、あるべき道はどこにあるのか、正しい解決はどこにあるのかと神に尋ね、思い巡らす、そういう戦いが主イエスの祈りの中で繰り広げられています。
 そしてそれは決して、頭の中や心の中だけで終わるようなことではありません。ヘブライ人への手紙12章4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」という御言葉がありますが、真剣な祈りを捧げる時には、その祈りは肉体に来るのです。この場面での主イエスもそうでした。44節に「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。主イエスがこんなにも苦しみながら、それでも祈ることをやめずに祈り続けられるのはどうしてだろうかということ考えたいのです。

 主イエスはここで、御自身が今から架かる十字架の痛さや苦しさを恐れて逃げ出したいと思っておられるのではありません。主イエスは37節で「わたしについて聖書に書かれていることは必ず実現する。そしてわたしは犯罪人の間で処刑される」と言っておられます。しかしまさに、そのようにして実現されていくことが正しいことなのかという点を、私たちは慎みをもって考えてみたいと思うのです。
 まず、神はこの世界の中で犯される人間の罪を、いつまでもそのままにしておこうとはなさいません。私たち人間の罪が野放しにされれば、私たちは最終的には自分たちの犯した罪にまみれて失われ、滅んでいってしまいます。神は私たちが、手入れをしてもらえず汚物にまみれ身動き取れずに倒れている家畜のようであってはならないとお考えです。ですから神は、何とかしてこの世界に生きる人間の罪を取り除こうとなさいます。そして、罪を取り除いた上で、もはや汚れのない清められた者として、私たちを再び神との交わりに迎えてくださろうとなさるのです。神は私たちを本当に深く愛し、慈しんでおられます。それはただ言葉だけのことではありません。私たちが失われた孤独な者とならずに、神ご自身との永遠の交わりの中に置かれ、命を喜んで生きるということを神はお望みになるのです。そのように、かけがえのない一人一人として私たちを救ってくださろうとします。

 けれども、「罪を取り除く」と言っても、実際にはどうしたら良いのでしょうか。ただ口先だけで「今までのことは水に流す。今からは新しい清らかな者なのだ」と言えばそれで済むのでしょうか。もちろんそんなことで済むはずはないのです。それではまるで、真っ黒に汚れているものを今からは白と呼ぶことにすると言って、名前を言い換えているようなものです。罪を犯して日毎に罪にまみれ心が険しく孤独になっていく、失われていく人間の現実をそのままにして、口先だけで「清い」と言ってみたところで、それでは何もなりません。人間が犯した罪は罪として厳しく処断されなくてはならないのです。犯した罪に見合うだけの償いがなされ、犠牲が払われるのでなくてはなりません。
 私たちは、今、そういうことを考えさせられるような時代を生きています。大変強い国の大統領が力づくで多くの人の血を流す罪を犯している。そのことをそのままに通すことはできない、それ相応の代償と犠牲を払わなければ釣り合わないと世界中が思っている。けれども、それをどうしたらよいのか分からないという中で私たちは日々を暮らしています。しかし、それは別にその出来事に限った話ではないのです。人間が犯している罪、私たちが日々犯してしまう過ち、互いの間に生み出してしまう破れ、その一つ一つについても、それに見合った代償と犠牲が払われなくてはなりません。そうでなければ、私たちは子供たちに説明ができないのです。「どうしてあんなに罪もない人の血が流されているの?」と子供たちから聞かれて、私たちはなんと答えるのでしょうか。「世の中とはそういうものなのだ。強い者勝ちなのだから、仕方ない」と、私たちはそうは答えられないと思います。
 本当に正しいのは、過ちを犯した人が「わたしは間違ってしまいました。ごめんなさい」と、傷ついた人たちに謝ることです。ところが、力に物を言わせる人たちは謝る気がなく、そのまま時代は流れていく…私たちは、世の中とはそういうものなのだと思って生きていくのでしょうか。そうだとすれば、私たちの一生は、自分が何をしていったら良いのか分からなくなってしまいます。
 過ちに対しては、きちんと犠牲が払われ償いがつけられてこそ、すべてが精算され、もう一度清らかな始まりに辿り着くことができるのです。それが物の道理だろうと思います。

 しかしそう考えますと、そこで非常に困難な問題が生じることになります。人間が自分たちの犯す罪のすべてを清算する、抱えたその借金をすべて支払うみたいに自分を贖って清らかな再スタートを切るためには、何が必要でしょうか。罪の代償として、自分自身を犠牲に差し出さなければならなくなるのです。しかし自分自身を犠牲として差し出してしまったら、そこではもう、その人は生き続けることができなくなります。もう一度清らかな者となって神の前に立ち、神との交わりの中で生きるようになるためには、その人自身が生き続けなければならない、けれども生き続けてしまえば、その人はやはり罪にまみれた惨めなあり方を繰り返していく他ないのです。
 私たちは自分を振り返っても、そのことはよく分かるのではないでしょうか。「わたしはこれまで正しいことだけをしてきた」などという人はいないのです。「今から心を入れ替え、新しい人になります」と年の初めなどに言ったりしますが、それで私たちが清らかに新しく生まれ変わった試しはありません。私たちは生きている限り、過ちを、罪を犯し続けていくようなところがあります。そうであれば私たちは、「どうせ皆罪を犯すのだから、やりたいように生きたらいい」と言う他ないのでしょうか。

 神は、思いがけない手段を選ばれました。神の側で人間の罪の代償となる犠牲を用意してくださり、その犠牲によって罪を処断し、厳しく裁くことによって、私たち人間の罪を精算してくださろうとしました。すなわち、私たち人間の罪の犠牲として、御自身としては全く罪のない神の独り子を十字架にかけて犠牲としてくださったのです。
 コリントの信徒への手紙二5章21節に「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあり、まさしくそのことがはっきりした言葉で記されています。「罪と何のかかわりもない方」すなわち「主イエス」を、神は人間の罪の代償として罪となさり、十字架の上で厳しく処断なさいました。この主の犠牲によって私たちは、神の前に罪を精算され、赦された者として立つことができるようにされているのです。
 主イエスがこの晩、激しい祈りの中で神と語り合われ、確かめておられたのは、まさにこのことでした。「本当にこれしか道がないのか。この杯を飲む以外に、他に道はないのですか。もっと手軽に済ませる道はないのでしょうか」。真剣に主イエスはお考えになり、そして最後には、その身をもって、御自身を犠牲として、人間の罪と死と戦われたのです。

 このように、主イエスが真剣な祈りを捧げ、そして結論を得て立ち上がられた時、弟子たちはどうしていたでしょうか。45節に「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。不思議な言い方です。「悲しみの果てに眠り込む」とは、どういうことなのでしょうか。弟子たちが眠り込んだのは、主イエスがこの晩の祈りの中で何を祈っておられたのか、よく分からなかったためです。主イエスが何を問題にして祈っておられるのか、弟子たちには分かりませんでした。
 けれども、自分たちの先生であり、本当に深く愛する主イエスが非常に苦しんで緊張感をもって祈っておられることは分かりました。その主イエスの様子にただならないものを感じている弟子たちも緊張し、悲しみました。しかし、主イエスが苦しみながら祈っておられる姿というのは、弟子たちにとっては所詮他人の苦しみでしかなかったのです。本当は、主イエスが捧げた祈りは弟子たちのための祈りであり、すべての人間の罪がどうすれば赦されるのかということを巡っての祈りでした。しかし弟子たちは、それが自分たちのことだと思わなかったので、主イエスのお姿だけを見て、ひとしきり胸を痛め悲しんだ後、安穏として眠りについていくのです。「本当に苦しんでおられる。気の毒だ。辛いだろう」、そう同情した末に眠り込んでしまう、しかしこれは私たちの姿ではないかと思います。
 この世で辛い人、苦しい人、悲しんでいる人を見るときに、私たちは心から同情します。そしてとても辛いだろうなと思っていますが、しかし、自分が苦しむ時のようには起きていることができず、私たちは同情しながら眠ってしまうのです。

 主イエスは、悲しみの果てに眠り込んでいた弟子たちのもとに来て、言われました。46節に「イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい』」とあります。もう一度主イエスは、「目覚めて起きて祈っているように」と言われました。この晩主イエスが捧げてくださった祈りは、神がどういう仕方で私たち人間を救おうとなさっているのかということを尋ね求める祈りでした。そして御自身の犠牲によってだけ、人間の罪は精算されるのだということを確かめられ、十字架に向かって進んで行かれました。
 「誘惑に陥らぬよう、起きて祈る」というのは、主イエスと父なる神が祈りの中で確かめてくださった私たちの救いの出来事、主イエスの救いの御業を確かめ、「信じて生きる」ということではないでしょうか。主イエスのこの晩の祈りは、主を信じる人にとっては何にも勝る武器なのです。どんなにひどい失敗をしても、どんなに取り返しのつかないことをしても、人生をすべて棒に振ってしまったと思うようなところでも、主イエスが払ってくださった犠牲によって、私たちはもう一度、今置かれているところから神のものとして生き始めることが赦されているのです。主イエスは私たちのために祈り、確かめ、私たちのために十字架に向かってくださいました。この主の祈りと御業が私たちを根底のところから支えてくださっているのです。

 私たちは、自分の力が足りない、弱い者にすぎないと感じる時に、自分で何とか力をつけようと思うかもしれません。しかし私たちが自分の力や思いを先立たせて生きようとする時には、どうしても不安や恐れに捕らわれて、結局は自分が弱い者でしかないということを思わずにはいられないのです。けれども、そんな私たちを主イエスが覚えてくださり、過ちを犯してしまうどんなに弱い者であっても、十字架によって罪を贖われるのだとおっしゃってくださいます。
 私たちもまた、冷静に祈りを捧げ、神の救いの御業の中に抱かれている一人一人なのだということを知る者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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